気がついたらなんてありふれた
030:黒い海に埋もれながら
繁華街と鄙の間にあるバーから尊は気負いもなく出てくる。初めてここの扉を叩くには勇気がいるのだと話にだけは聞いたが尊には家にも等しいと思う。昔馴染みでつるむだけだったのがいつの間にかグループや団体として名を馳せた。そこから追い出されるでもなく自分の意志で好き勝手に出入りする。暴力的なことも厭わない団体だから悪名ばかりが轟くがそれで小競り合いや威嚇が減ったような気がするから五分五分だと思っている。旗頭にされている尊の年齢がまだ若い部類に入るから構成員は自然と年少のものばかりになった。たまに例外もいる。燃えるような真朱の髪を後ろへ流して額を露わにしている。前髪を上げたのは威嚇の意味も含んだ。ただでさえ年齢のことで揶揄される。予防線として自然に覚えていた。
ファーの付いたジャケットを羽織る内側は驚くほど薄着だ。装飾もあまりつけない。特に首には気をつける。喧嘩の時に絞め上げられて気絶する。外したらなにか足りないと身内から不評だったので折り合いとして簡素な鎖を下げた。強く引っ張ったら千切れると思う。装飾品はことごとく武器に転用する。指に巻きつけて握りこむだけで破壊力が違う。
渡されたメモにはいくつかの走り書きがされていて、そのことごとくを尊は知らない。たむろすバーの維持管理は昔馴染みが一手に担う。団体の幹部でも戦闘に臨むことが多いせいか鉄拳制裁が普通だ。尊が叱られる立場になってもそこは変わらない。落ち度があれば素直に認めて謝る。二番手に位置する柳腰の実力はある意味一番怖い。上がり込むなり二階へ陣取って仮眠をとる。目が覚めたらメモをつきつけられて使い走りだ。断るとのちのち厄介なので承諾する。お前が行ったら話が早いねんな。しれっと言われてついたため息は黙殺された。そういえば場所はドコだと思いいたってバーを振り向くがその扉は冷淡に閉じたままだ。戻ったら文句言われんな。
「尊さん!」
華やいだ声はまだ高い。目を向けると頭の半分にニット帽をかぶった少年がかけてくる。得意にしているスケートボードは脇へ抱えていた。尊の目線を追ったのか困ったように肩をすくめた。店が傷むから入るときは降りろって草薙さんに言われて。草薙は昔馴染みでバーの店主だ。きりもりもする。
「どこか行くンすか? へへ、殴りこみ、とか!」
甘ったるく握りこぶしを振り上げるのはまだ幼い。尊に拾われたことを隠しもしない。八田美咲という女名で、それは本人も気にしている。
「ちげぇよ」
使い走りだよ。手伝います? きょろりとした三白眼は威嚇より愛らしさのほうが強い。尊はメモをつきだして無愛想に言う。お前、場所わかるか。教えろ。二人で覗き込むメモの文字に美咲が目を泳がせてから建物や通りの名前を連ねた。ここはあの通りから一本奥に入ったとこ。コレはほらあれっすよ、今工事してるビルの裏手。尊はなんとか頭のなかの地図と照らして相槌を打つ。あ、この通りは今道路工事で通れなくなってるから注意っすよ。…ややこしいな。ちょっとしたたまり場っす。通り抜けできないから。運動したい奴ばっかり集まっちゃって。スケートボードなどは往来で嫌な顔をされるのも少なくないと聞く。自由に闊歩できる場所の情報はすぐに回るのだと美咲が得意気に胸を張る。悪かったな。美咲の手からメモを抜き取って背中を向ける。手伝いましょうか? 飯でも食ってろ。腹が減ってんだろ。流し見る尊に美咲は顔を赤らめて笑った。くす、と小さく笑ってから片手で挨拶のようにひらりと振る。気ぃつけてくださいね! 声まで赤くなってるみたいだと思いながら悪くないと微笑んだ。
教えられた通りへ出る。メモの項目を1つずつ順繰りに潰していく。荷物で手一杯になることもなく手続きや確認、橋渡しなどをこなす。裏稼業に顔が売れていても表の人間には無名も同然だ。世界が違うだけで扱いが変わる。人混みに紛れてしまえば真朱の髪さえありふれる。人熱れに身を任せて無為に界隈をうろついた。戦闘や孤高が印象として先立つのは判っているが人間嫌いなわけでもないと思う。友人もいる。能力と立場が咬み合わないだけだ。
「み、こ、と、さん」
跳ね上がる語尾に目を見開く。振り向く前に肩を掴まれて人の流れから釣り出された。油断しすぎ。美咲じゃないんだからさァ。前髪を半分だけ垂らした黒青の髪。うなじを隠すほどの長さの髪は毛先が跳ねて一筋縄ではいかない彼の性質のようだ。左右ともに頭頂部近くから跳ねるのは両翼を広げた鳥に似ている。乳白の肌に冴え冴えとした黒曜石の双眸は蒼い輝きを秘める。伏見猿比古。出掛けに出くわした八田美咲と同時に拾った少年で、美咲とは仲が好いのか悪いのか判断がつかない。揶揄と諍いを繰り返し罵声を投げつけ合うのも珍しくない。仲が悪いのかあれはとつぶやいたら草薙は意味ありげに笑んだ。尊にはわからんかもなぁ。
近くで見れば猿比古の身なりは悪くない。理知の双眸と顔立ち自体も出来がいい。黒い縁取りを隠そうともしない眼鏡が印象を誤認させる。こっちきて。ずるずると引きずり込まれた袋小路は建物と建物の間だ。意図的に場所をとったのではなく両端から建物に食われて残ったあまり場所だ。残飯やゴミばかりが散乱する。雨垂れに打たれたのか雑誌はふやけた紙面を晒し、何が書いてあったのかもわからない。猿比古の靴が無造作に踏みにじる。
「あんたさぁ、気ぃ抜きすぎだろ。大事な大事なみことさんに乱暴したって言ったら美咲怒るかなぁ?」
あんたのそのツラ歪ませてやりたい。襟元を掴まれる。尊は黙って反応しない。
団体の高位にいくに従って脅迫まがいのことには経験を積んだ。自分も他人も脅かされたし生活や在りようまでもが否定される。暴力は解決と同時に発端さえはらんだ。背中から壁へたたきつけられる。肺が揺れて息がしづらい。なぁどんな気分? みことさん、みことさんって懐かれてヘラヘラしやがって。食って寝て垂れるだけのくせに。悪しざまな物言いにも尊は怒り出さない。不快なのだが暴発した力の末路こそが忌むべきものだと知っている。眼鏡の奥の揺らぎを見据えて無造作に口を開いた。
「かまって欲しいならかまって欲しいって云うんだな」
唾を飲み込みもしないうちに殴られた。口の中の唾液に苦い味が混じった。横を向いて吐き捨てる。紅い唾は土に染みて黒ずんだ。おいおい、何言っちゃってんの。癇に障る抑揚なのは意識的なものだ。猿比古は他人の反応を推し量れないような浅慮ではない。鬱屈したものがあるのだろうと思っても尊の存在は劇薬でしかないのも判っている。
「あぁもう、ほんとムカツク。マジでやっちゃおうか」
情動に任せて行為が成立してしまうくらいには双方若い。
薄手のシャツの上を猿比古の指が這う。耳朶を食むと思うほど近かった口元は歯を剥きだして笑ったあとに噛み付くようにキスをする。歯列の衝撃に儚い星がチカチカする。肉を裂く歯は痛いというより衝撃のほうが強い。硬い歯さえも構わずに噛んでくる。食ってやりたい。舌を甘く食まれて唾液があふれた。嚥下がうまく行かずに咳き込んだ。背中を丸めそうになるのを猿比古が肩を掴んで阻む。ちゃんとご奉仕しましょうねぇ。猿比古が屈む。口の中の痛みに反応が遅れた。致命的なそれが見逃されるはずもなく、尊の抜き身はあっさりと猿比古に掌握される。包まれるような圧の空間はじっとりと濡れる。怯んだ瞬間、膕を狙った一閃が疾走り尊の腰が砕けた。不意に折られた膝に力が入らない。座り込んだところを圧されて地面に仰臥した。油断なく脚の間へ位置を取られる。閉じることもままならない。
「…おい…」
起き上がる肩は殴打のように突き放されて乱暴に尊を組み伏せる。なんだよ、本気出せば?
尊が現在の立場を築いた要因として圧倒的な戦闘力がある。猿比古の言うとおりに本気を出せば退けられないことはないと思う。それでも強すぎる力は加減を踏み違えやすい。寝ぼけただけで加減を誤る程度の腕では本気を出した時の惨事が知れる。暴走した力は持ち主をあっさり見限る。
「なんだよ、本気出せってば。みことさんはァ、黙って犯されて、くれんのォ?」
それは侮蔑なんだよクソ野郎。吐き捨てて歪む猿比古の表情に尊の手が止まる。払いのけようともがく手が鈍った。上から眺めて余裕ぶりやがって。言葉を区切るのは猿比古が挑発に用いる手段だ。み、こ、と、さん。オレと一緒に美咲のコト裏切ろっか。みんなのこと裏切ろっか。尊の手が猿比古の頬に触れる。冷たく濡れるそれを撫でた。
「あぁ、なんでもない。やっぱりどうでもいいや。オレ、今、あんたのことグチャグチャにしてやりたくってたまんない」
指先は遠慮なく尊の体を撫でまわす。体中に及ぶそれに例外はない。脚の間や茂みさえもかすめる。尊の着衣はいつの間にか奪われた。もともと軽装な方であるのが災いした。震える吐息とせわしなく膨張と収縮を繰り返す胸部や腹部。柔らかい場所は埋まらんばかりに掌底で圧されて嘔吐いた。
脚の間を掴まれて体が反った。張り詰める峰のような喉へ猿比古は噛み付く。躊躇もなく歯を立ててくる。キスマークじゃなくて歯型つけてやる。好きに言い逃れてくれよ。鼈甲と琥珀に揺らぐ尊の双眸が猿比古をとらえる。見上げてくる猿比古の睫毛の長さに少し驚いた。瞬くそれは飾るでもないのに際立つ。あんた、その髪って染めてんの? 返事をしない。お前はどうなんだよ。おざなりな問い返しに猿比古も取り合わない。逆光のせいで猿比古の表情が見えづらい。瞳だけがギラギラと煌めく。猫の目に似ていた。眼鏡の硝子が余計に光量を集めて異様な輝きを放つ。黒縁は白い皮膚の中で闇色に目立つ。
「尊。周防、尊」
強い突き上げが抉る。閉じようとする脚が絡み猿比古の服を掴む指は力が込められて白くなる。突き放そうとして掴んだ指から力が抜けない。突き上げに跳ねる体の拍子でしがみつく。
「八田美咲と、寝た?」
恍惚とした笑みに言葉はない。口の端がつり上がって裂けるような笑みを浮かべた。唇へ噛み付き服の上から爪を立ててひっかく。返事のように猿比古の爪が尊の内股へ紅い蚯蚓腫れを残す。
「優しかった?」
「上着取れ」
粗暴だ粗暴だと注意されても言葉遣いが直らない。猿比古が億劫そうに散らばせた上着を取ると尊へ放る。隠しから煙草とジッポを探りだす。咥えて火をつけるのを猿比古が目だけを向けてくる。湿った土の上に二人で並んで座っている。ふたりともすでに身なりは直してある。少なくとも交渉の名残は薄まりつつある。まだ猿比古がいる理由は判らないが尊はしばらく腰を休めたかった。尊がおいた煙草の箱へ自然な動作で手を伸ばす猿比古の頭をひっぱたく。
「なに?」
「ガキが喫むな」
反対側へ避けるのを猿比古が不満げに鼻を鳴らす。今さら言うのかよそれ。アイツを見習え。美咲を匂わせると取り繕うこともなく猿比古が舌打ちした。奔放なようでいて数少ない鎖は堅固だ。尊はそういう甘さを切り捨てきれない。いつかひどい目にあうと思っていても気が起きない。
「あの名だたる団体所属で煙草も喫まないなんてとんだハッタリだな」
「うるせぇ」
吐き出す煙は空へ融ける。くすぶるように燃える火種がじわじわと侵蝕する。指に挟んで外し、数瞬の間を置いて煙を吐いた。その手を掴まれて、猿比古が素早くタバコを咥える。熟れた動きと仕草に尊が顔をしかめる。くっくっと猿比古が笑った。あんた案外人がいいよな。
「いつもみたいにオレなんか燃やせよ」
尊は行動に躊躇しない。思い切りの良さで修羅場をくぐってきた。力の扱いに惑っても臆病にはならない。そんなだから美咲があんたから離れられない。眼鏡を外して服の裾で硝子を拭っている。きっちりしているようで杜撰だ。その眼鏡を尊にかけさせてくる。きょとんとして瞬くのを見て猿比古は声を上げて笑う。眼鏡のない猿比古はいくらか幼く見える。焦点が合わない。目が眩んだ。
「おい、これ…」
「目のいいやつが眼鏡かけると目が悪くなるんだってさ」
外そうとする手をやんわりと抑えられる。なぁ、あんたからオレたちは何に見えてんだ?
「二人の時に敬語使うのよすわ。バカバカしい」
この煙草不味いな。一発やった後に煙草欲しいなんてとんだ中毒だぜ。投げやりに紡ぐ言葉を聞く。もともと尊は口数が多くないし、猿比古に至っては億劫だと感じればそれを隠そうともしない。行為の後の怠さを払う軽口は空疎に消える。
吸うたびに煙草を口から外す動きを猿比古が訊く。咥えないの? …腹火傷しても知らねぇぞ。あ、そういうこと。沈黙と夜がおりる。薄暗い界隈は次第に街灯で昼間より明るくなる。通りから奥まるだけで闇はその姿を表し真っ当ささえも薄れる。それでも闇のほうが居心地の良い者というものはいるのだ。街灯のおこぼれと届き切らない闇との間で揺れる。踏み入れたそこが沼地で気がついたら身動きがとれない。ありふれた話で誰も耳をかさない内容だ。関係から年齢や性別の重要性が薄れるのも特徴的だ。
「何考えてんの?」
猿比古が身を乗り出して尊の上にかぶさろうとする。顔が近づく。鼻先を猿比古の舌先がつついた。
「あんた男と寝たことあるだろ」
尊は目を眇めた。犬歯を剥き出す笑いは威嚇だ。
「まわりくどいな」
唇を吸いながら蒼い髪を梳いてやる。ずるずると体がくずおれていく。力の抜けるそれにまた服を脱ぎ着することになるだろうと思いを馳せた。
《了》